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■ 朴美景『走れ、ヒョンジン!』
DVDより先に『走れ、ヒョンジン!』が届いたので、こちらから読んだ。映画のモデルとなった
自閉症ランナーの母である朴美景(パク・ミギョン)さんの手記である。
いい本だ。
自閉症児・者に関わる人ならば、読んでおいても損はしないだろうと思う。
前にも書いたことかもしれないが、(カナー型の)
自閉症児・者とその親の関係と、
高機能自閉症・
アスペルガー症候群の人の無意識と自我の関係は、よく似ている部分がある。
わけのわからないものを家の中/心の中に抱え、こいつを一体どうやって生きさせてやったらいいかという考えが頭から離れない。周囲から横槍を入れて迷ったり、「結局責任を取らなきゃいけないのは親/俺なんだし」ってことで迷いを払いのけたりしながら、暮らしている。
そして、マラソン、トライアスロン、断食、人間関係を失うことを恐れない実験的なコミュニケーション、医者から「現実的でない」などと揶揄されてしまうやり方での就職活動。中身はいろいろだけどとにかく、傍目には無謀とも思えるチャレンジを繰り返してしまったりもするのである。
なぜか。
翻訳者の蓮池薫さんが書いたあとがきの、この本の概要をまとめた部分に、こうある。
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でもこれ(子が死ぬまで親が生き続けること:引用者注)は叶わぬ願いだ。だから子どもが母なしでも生きていけるように自立させなければならない。この世に生まれた我が子に、生きるということを何かで実感させてやらなければならない。
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すべてを語っていると思う。
生きるということの実感がない状態は誰にだってきついだろうが、
自閉症者にはその状態を何とかうまくやり過ごすために必要な心理的装置が、すっぽり欠けている。
だからその状態では、心身の機能が著しく低下する。そればかりか、その状態では内面の発達もピタッと止まってしまう。
逆に言うと、
自閉症児をまっとうに育てようと思ったら、かなり思い切ったことをやっていく必要がある場合もある、ということになる。
その辺で、
自閉症児・者に関わる人にとってはいい参考書になるんじゃないかな。この本は。
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■ 韓国映画『マラソン』
上の本を読み終えた頃に、このDVDが届いた。
いい映画だ。人にも奨められる作品である。
しかし、何かを書くとなると混乱しちゃうんだよなぁ。
自閉症者が、定型発達者が広く一般の人に向けて作った
自閉症者が主人公の映画を見る。しかも定型発達者に向けてその映画について何かを書く。
悪い内容だったら悪口を書けばいいんだけど、いい内容だからこそ、うまく表現できない。お奨めしたいのに、俺が何か書くと見る気を失う人も少なからずいそうだ。
困ったw
でも書くか…。
主人公の少年時代を描いた冒頭10分間で、俺は3回くらい泣きそうになった。村上龍も確か似たようなことを言っていた。
生きるということを何かで実感させてやらなければならない。努力を続ける母。その効果があるんだかないんだか示してくれない息子。
すれ違いは悲しい。が、すれ違いに耐える姿は美しくもある。
こういうことは、
自閉症だろうが定型発達だろうが、相通ずるものがあると思う。
しかし、主人公の青年期ね。
作品中の他の登場人物にとっても、映画を見る人にとっても、たぶん映画を作っていたスタッフにも、下手をすると演じていた俳優にでさえ、主人公の内面は謎としてあるわけでしょう?
でも、俺にはわかっちゃうからなぁ。わかっちゃうがゆえに感じる滑稽さ、わかっちゃうがゆえに「そういう描写でいいのか?」と疑問が浮かぶシーン。そういうのもほんの少しあった。
けど、それを突き詰めると映画という形式では描写できなくなるかもしれない。だから俺は「残念ではあるけど可能な範囲では最高のものにしたよね」的な、喜んでいいんだか悲しんでいいんだかよくわからない感想を持ってしまう。
例えば、主人公は本当に走りたくて走っているのかどうか。それがわからなくて母は悩む。観客も謎に引き込まれる。
しかし最後に、主人公は母の制止を振り切って走り出す。そこで母も観客も「ああ、彼は本当に走りたかったんだな」と腑に落ちる。
そういうふうに、この映画はできている。
ところが、だ。
自閉症者の心理は、「走りたいから走る」というふうにはなっていないわけだよね。
自分が本当に走りたいのかどうかわからない。確かめなくてはならない。確かめるには実際に走ってみるしかない。だから走ってしまう。
自閉症について言われている「想像力の欠如」というのは、この意味においてはまったく正しい。走る前から「走りたい」と思える。それは想像力の賜物である。
そうとわかって見ている俺には、提示される問い「主人公は本当に走りたくて走っているのかどうか」に、登場人物も観客も引き込まれるという映画の構造そのものが、戯画になってしまう。
だからできれば、走りながら「ああ、やっぱり俺は走りたかったんだ」と確認していく主人公の姿を描く部分は、もっと厳密に描写してほしかった。…と俺は思うけど、一般向けに作る映画としては、これでよかったのかもしれない。
自閉症をきちんと描きつつ大衆映画として成立させるというチャレンジングな課題に対して、できることは全部やった。そういう感じは確かにする。
俺の側から書くとどうしても「惜しい。もう少し」となってしまうのがもどかしいんだけど、ぜひ買うなりレンタルで探すなりして、見てもらえるといいと思う。
タグ : 発達障害 アスペルガー症候群 アスペルガー 自閉症 自閉 高機能自閉症
DVD
この連休中に読みたいと思っているんだけど・・・。
そうそう、ドラマのほうは、録画している友達がいなくて、見れなくなりました。残念・・かな?
観終えたら、感想をこちらにアップしますね。
「マラソン」を見終えました。(ネタバレを含みます!)
たぶん、母だからかな・・・。登山のシーン、私は登山はしませんでしたが、画伯が2〜3歳の頃、毎日二人で2時間ほど散歩にでかけて(なかなか帰路につけなくて)、映画の母と同じように話しかけていたのを思い出しました。雨の日もカッパを着て、「あめだね。」と言ったりしていました。そういえば、画伯は、「あめ、ザーザー」とか「救急車、ピーポーピーポー」とか、擬音を話すと興味深そうに私を見上げていましたね。
画伯は、主人公よりも言葉を話さないので、全く同じというわけではありませんが、多くの母親にとってなじみのある光景ではないかと思います。
迷子も、よくありました。ただ、後半で母親が手を離したという事実が判明しましたが、そこは、共感できなかったです。そこまで追い詰められたという記憶はありません。
おならやサインなど、多くのシーンで、「あるある」とにやけてしまいました。
私が泣きそうになった(泣いた)のは、主人公の地下鉄でのエピソード、母親が入院して泣きながら後悔するシーンですね。私自身が今も後悔している部分と重なってしまったからかなって思います。
ただね、そのあとで「マラソンさせない」になるのがね・・・。「え?違うでしょ?また、母が決めちゃうの?」って思っちゃった。
それにしても、あのコーチはいいですね。主人公にとって、コーチとの出会いは貴重だったと思いますね。自然体で、本当のコミュニケーションが生まれているって感じました。カバンを持って走るシーンなんて最高ですよね。何かをしてやろうという恩着せがましいところがない。面倒で、適当に「100周走れ」と言った言葉から判明したフルマラソンの可能性・・・。
コーチを介してマラソン同好会(?)との出会いがあり、後に彼がマラソン会場にたどりつけたこと・・。障害特性に配慮しすぎていたら、絶対に生まれなかったエピソードですね。
また、入院したことによって、父や兄と過ごす時間ができたこと、母がいなくても主人公は、それなりに生活できるという実証・・・。
多くの母親は、周囲(家族も含め)に理解してもらえないという環境でスタートしていることもあり、知らず知らずにそれがトラウマとなっていて、他の人に任せられない(任したくない)というように、固まった信念のようなものが出来上がってしまう。この映画では、「他の人に任せたほうがいいこともある。」というところまでは、母の気づきがないのが少し残念でした。
でね、ドードーとらさんが書いておられた【逆に言うと、自閉症児をまっとうに育てようと思ったら、かなり思い切ったことをやっていく必要がある場合もある、ということになる。】ということ。
同じかどうかわからないけれど、私はこう思うんですよ。
当事者の『意思』を尊重しようとすると、この映画のように、「彼はマラソンがしたいかどうか」が重要になってしまう。「マラソンしたくないならしなくていい」というように・・・。
でも、会話に話題が必要なように、人生においても課題のようなものが必要だと思うんですよね。
それが、毎日の家事や遊び、勉強、ここではマラソンだったりするのではないかってね。
でも、当事者を尊重することは忘れてはいけないと思うんですよ。
例えば、周囲が「私は、あなたに(と)○○なことをしてほしい(みたい)。つきあってくれるだろうか?」という誘いかけは、どんどんしたらいいとおもうけれど、無理強いはだめ、みたいな。
コーチとのやりとりのように、そのときそのとき、本気でぶつかって、たまたま結果はあとからついてきたって感じですね。
コーチから食べ物を受け取らないシーン、母親が誘拐防止で教えたことの弊害。母親が価値観や優先順位を揺すぶられるところですね。
ここも、「誘拐防止で教えたかったことを責めはしないけれど、いまさら、人との関係性(ありがとうと言って受け取る)を求めるのは図々しいんじゃない?」っていう葛藤を描いてほしかったですね。
なーんて、後から見てるからえらそうに注文していますが、映像はきれいでしたし、前半、母親をイライラしてみてしまうほどの脚本は、それだけ上手く書かれていて、後半の母の気づきのせつなさにつながっていくのだと思います。
日本のドラマ(名古屋のアスペエルデの会の辻井先生が監修されたそうです)では、どんなふうだったのかなって思ってしまいました。
映画の中の母親はね。うーん。どうなんだろ。
気づきがないのか。考えて考えて考えてみると結局は気づく前と同じようにするしかない、と一周しちゃうってことなのか。両方あると思うんですよ。
コーチはよかったですねぇ! おいしい役回りと言ってしまえばそれまでですけど、あのダメさ加減w
立派すぎちゃあいけないわけですな。当たり前のことですけど。
話が立派じゃいけないし、登場人物が立派でもいけない。この映画の監督は、そこを大分意識して作ってたみたいですね。
そういう意味では、アリスさんがイライラして見てしまったのは、やっぱり成功なんでしょう。
そういう意味では日本のドラマは本当にクソで、完全にご立派な話になっちゃってますね。
母親役に田中美佐子。コーチ役に松岡昌宏。お二人の演技がどうとか言う前に、これはどう考えても「立派に作ろう」という製作者の意図の表れですわな。父親も立派な人として描かれちゃってましたし。
もとの映画が描こうとしていたことに忠実になるなら、母親役はちょっと思い浮かばないけど、コーチ役は泉谷しげる方面でしょw
うん、ただ、意図に自覚があるかどうかは変わると思うんだけどね。
「子どものため」というきれいごとではなく、「自分がどうしたいのか」という自覚。そこが大事なんだと思うんだけど。
>コーチ役は泉谷しげる方面でしょw
泉谷しげるかぁ・・・。私はね、竹中直人かな。
田中美佐子の母親はありかなって思うけど。
疲れた母の演技って得意そうだし。
ドラマの演技を見てないから、なんともいえないんだけどね。
あと、年配の女優さんが浮かんでいるんだけど、名前が出てこないんだ。
くやしいな。
そのループには絶対に落としたくなかったんだろうと思います。
泉谷しげるも思いつきで言っただけですけど、竹中直人だと本人が面白すぎて、主人公との関係が消されちゃわないかどうかが心配w
確かに、ドードーとらさんにいわれるとそんな気がする。
ただ、「自分がどうしたいか」(普段は蓋をしている自分)を直視するのって、きれいごとではないんだけどね。
でも、それを遠くから見ると、嘘っぽく聞こえたり見えたりしてしまう。
なんか、難しいな・・・。
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