Author:【アリス】と【ドードーとら】
【アリス】 ![]()
自閉症の世界の探検家。
2人の自閉症児・者の母。
【ドードーとら】 ![]()
自閉症の世界の案内役。
アスペルガー症候群の当事者。
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統合失調症とスキゾイド
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-64.html
フェティシスムとひきこもり または「スキゾ的仮面」を被る若者たち
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-72.html
脂(あぶらすまし)さんのブログ アブラブログ より。
上山さんのところにトラックバックがあったのでそこから行ってみたのだが、読んで驚いた。この方は鋭い。
★
まず上の記事について。
「あるのは感じているけどない」ものに、それが「ない」と知りながら近づく。
おっしゃるとおりだなあ。
岡本太郎的な話なんだけれども。
ない。ないものもない。つまり「無」や「死」っていう類のものは、ないことを意味する言葉だってだけでなくて、そんなものはない。
逆に言うと、存在するものは絶対的に永遠に存在する。「死ぬ」っていうのは一種のネタだ。
だがネタはネタとしても、死を想い、死に近づくいたとき、ものすごいエネルギーが俺に吹き込んでくる。それは確かなことで、俺はそのエネルギーを利用して生きている。それを利用する他にはエネルギー源がない、とも言える。
俺からすれば「あるのは感じているけどない」ものは「ない」わけ。
でも普通の人は、「あるのは感じているけどない」ものを「ある」ということにしたがる。
そうそうそう。そこなんだ。
この話は、定型人と自閉症者の間のひっくり返りの核心部分に、極めて近い。
だからさぁ。こだわりだ妄想だ思い込みだ認知の歪みだと言われるけど、俺からすれば全部逆なんですよ。
皆さん、ネタを現実だと思い込んで生きていらっしゃる。「ない」ものを怖がり、そこから逃げるようにして。
皆さんは、はだかの王様の服が本当に見えちゃうほどの正直者なのです。
俺はというと、もっと正直者。
それで、「はだかははだかだろ」とか「服が見えるって設定にお付き合いしてあげることは、かまわないけどさ。どの道ネタなのに、その服って設定じゃセンス悪すぎじゃねぇ?」みたいなことを、ついつい言っちゃったりするんだw
それはまあ、「こいつは夢見てるんです」ということで処理しとかないと、まずいっちゃまずいわな。しょうがない。もう少し付き合ってみるか。
…というわけで、俺は障害者になったわけだw
アスペルガー症候群なんつーのは、ネタの極みだね。「ネタ=現実」図式を守る立場から追加された新ネタ。
世も末だな。こりゃ。
★
脂さんはおっしゃっている。「スキゾイドとは、その内的動力が想像界<象徴界といった傾向を持つ方々ではないか」。
そしてそこからスキゾイドの性質を挙げてくれているが、それらは自閉症者の基本的な性質と高い一致度を示していると思われる。
この「内的動力が想像界<象徴界」というのを、次のように言い換えてもいいだろう。
「経験的なものへの信頼<先験的なものへの信頼」
じゃあこの先見的って一体何だ。中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(33〜34ページ)から引用してみよう。
----------------------引用ここから
「トランセンデンタル」に憑かれた人々
「トランセンデンタル Transcendental」という言葉は、今では「超越的」とか「超越論的」と翻訳するようになっているが、それ以前の時代には「先験的」と訳されていた。「経験に先んじている」とか「経験が触れることのできない」というような意味合いであろう。人間の心の中に、現実の世界での五感からの影響や経験の及ぼす働きから完全に自由な領域が開かれており、この自由な領域こそが、人間の本質をつくっているのだという思考法のもとになっているのが、この言葉である。
この言葉が指示する世界に心惹かれた人たちは、宗教や哲学に深い関心を寄せるようになる。心の奥のその領域でおこっていることに、魅了されつくしてしまうと、そこからは「宗教の人」が生まれる。しかし、人間的自由の根拠地であるトランセンデンタルの領域に考えられることと、経験まみれの現実世界でおきていることを結び合わせて、現実世界のほうをなんとか「理想」のほうに合わせてつくりかえていこうという思考が発生するとき、極左と極右をひとつに抱き込む、ラジカルな政治思想の持ち主たちが出現することになる。
----------------------引用ここまで
俺もまた「ラジカルな政治思想の持ち主」の一人であることは、間違いがなさそうだ。
ただ、一点だけ、違う。
俺は「憑かれる側」ではなくて、「憑く側(の代理人)」なんだろうと思う。
俺の軸足は生まれてから今まで常に、トランセンデンタルの側にある。
トランセンデンタルの領域の近傍にいることによってのみ、生きるエネルギーを得る。トランセンデンタルの声にのみ、従う。逆らえば、エネルギーが切れたり、心身のコントロール権を持っていかれたりする。
どうも俺はそういう人らしい。普通の人が経験的なあれこれからエネルギーを引き出して生きているのと対照的だ。
俺にとっての経験的なあれこれっていうのは結局、トランセンデンタルの言うことをよりよく実現するための考慮事項にすぎない。(直接的な)エネルギー源にはなりえない。
★
生まれてから今までずっとトランセンデンタルに軸足がある俺には、癒しも救いも必要がない(というかそもそも、それが一体どういうことなのかが、よくわからない)。
当然、俺には宗教も必要がない。「人間は本質的に自由である」と生まれたときからずっと知っているからだ。
しかしこの世の人たちの多くは、「人間は本質的に不自由で、不自由を受け入れて初めて自由になる」などと思い込んでおられる。だからどうしても衝突してしまう。
多数派の人たちから見た俺は、人間が本質的に自由であることを体現して見せつけてくる存在なわけだから、嫌で嫌でたまらないんだろう。
逆に、癒されたり救われたりするという人たちもいたりする。よっぽど不自由してたのかもしれない。
中にはごく少数、「自分ももっと自由に生きなきゃね」という奇特な人が出てくる。彼らは俺のいい友達だ。
そんなことをしているうちに今、俺は(俺個人としてはまったく必要ないのに)宗教を学ばなきゃいけないような気がしてきている。
★
ちなみに、経験的なあれこれが(直接には)エネルギー源にはなりえないということは、自閉症者への人為的なしつけ・去勢・社会化の不可能性をも意味している。
わかるかな?
「人間は本質的に不自由で、不自由を受け入れて初めて自由になる」とすり込むのが、人為的なしつけ・去勢・社会化の“キホンのキ”だからね。自閉症者には、そのすり込みが効かないわけ。
でも軸足がトランセンデンタルにあるってことは、自然に道なりにやっていけば、それなりにまともに育つことも保証されている。信頼せよ。
★
まともに育った自閉症者は必然的に、「無」や「死」、「生のままのもの」「野生のもの」「自然のもの」といったような事柄を扱うのに長ける。
舞台の上にも出るだろうが、本来得意な立ち位置は舞台裏。
大昔には、自閉症者はシャーマン候補生として普通の子とは別に育てられた。…なーんてことも、あったかもしれないね。
シャーマンってのはまさしく、「憑く側(の代理人)」のことだ。
あるいはプラトンのアカデメイアにいたかもしれない。あるいは芸術や芸事の世界に。歴史を振り返ると、裏歴史だけども連綿と続いてきたスキゾイドの系譜が、観察される。
そんな(シャーマンの末裔たるw)俺が、統合失調症なんかの人に対して抱く印象は、「あぁあ。シロートが無用心にも踏み込んじゃったのね」。これに尽きるなぁ。
なんかあれだね。昔の日本での土着の信仰の話を思い出すよ。
もともと、日本ではご神体になっている山そのものに登ることはなかったらしい。ご神体になっている山の手前の、ちょっと低めの山に登って、ご神体になっている山からのエネルギーを受けた。
このように、手前までは行くけれども中には入らないのが、日本の土着信仰の基本形だ。
でも確か室町時代の頃から、ご神体になっている山そのものに登ることもなされるようになった。
それはその頃の日本はある種の全体主義に向かい始めていたのと関係がある、という見方がある。その全体主義に対抗しようとした人たちが、より強い神仏の力を借りようとして、ご神体になっている山そのものに登ったのではないかという説だ。
それって、統合失調症を目指した人の話だってことになるよね。
まあ、この話はこの話で長くなるからやめとこう。
★
さて、今度は下の記事について。
これもおっしゃるとおりだなぁ。
1つ前の記事で、「自閉症者は不登校・ひきこもり・ニートの中でも浮いちゃうんだぜ」と書いた。
彼らは「スキゾ的仮面を被ったパラノ的人格のひきこもり」。そうなんだよなぁ。彼らは、自我が強く、生命力が弱い。
ひきこもりは泥沼の再帰性に落ち込んでしまって苦しんでいるんだ、と言う上山さん(彼のブログのあちこちにある)。
その泥沼こそが自分に合っていると発見したこうもりさん(『アスペルガー当事者が語る特別支援教育』25ページ)。
こういう違いなんだよね。
ひきこもってしばらく経つと、ひきこもってるくせに不謹慎だっていうくらいに元気になってくる。
それも鬱屈したエネルギーが溜まってるんじゃないよ。もっとこう、透明な光が全身からパァーッと出ているような、生命力に満ち溢れた感じ。
どうしてこんな元気で快活なやつがひきこもってるんだかよくわからん、というひきこもり方で、それこそ「お前空気読んで、もうちっと元気なさそうにしてたら? ひきこもりなんだからよぅ」とでも言いたくなっちゃう。
…って感じのひきこもりの人だったら、自閉症を疑ってもいいかもしんないね。
★
それにしても、脂さんが書いている「スキゾ的人格」の話は、自閉症をうまく説明してくれていると思う。
自我が弱く、反抗期がない。
去勢っつっても、ネタだってわかってお付き合いしてるだけだしね。普通の人の第二次反抗期の時期に、「去勢去勢って、所詮ネタなのにしつこい! 俺にはそんなの無駄なんだよ!」っつって怒ってたら、「お前も反抗期かぁ」と言われたよw
残念。普通、そういうのは反抗期と言わないのだ。
思うままにずらずらと書いてしまった。まとまりが全然ないけど、よしとしよう。
少し時間をください。
文字は読めるけど、頭に入らないんですよ。
わかる部分と分からなくなる部分があって、難しい・・・。
今日は、バタバタしますので、夜に再チャレンジしますね。
ギブアップです
パラノとスキゾも元がわからないです。ただ、一般人とアスペルガー(自閉症)に置き換えたら、なんとなく理解できます。ベクトルが反対を向いているというのも、非自閉症と自閉症という対比に関しては納得です。
去勢の承認と否定もよくわからない。抑圧ということなのかな・・・?
ファティシスム、フェティッシュ、ファルス、・・・よくわからない。
カタカナは嫌いです。日本語に置き換えられないのかなぁ・・?(愚痴)
それと、/S から始まる式の、どこが現在位置なのか?S1?S2?
読んで理解するには、ある程度、精神分析(?)の知識が必要だと思いました。素人でごめんなさいって感じです。
以上がアブラブログさんの感想です。
上山さんのブログは、今、斉藤さんの「ひきこもり文化論」を拝読しているので、先にこちらを読みたいと思います。でないと、ブログの前提がよくわからないもので・・・。
でもね、またまた漠然としたところからの感想で申し訳ないのだけれど、ドードーとらさんが話してこられた内容と通じるものは感じます。
反抗期については、はかせが習い事の先生に「最近、反抗的です。」といわれて、はかせに確認すると、論点がずれていて、「反抗的は誤解です」という私に「お母さんは過保護です。理解できません。」といわれたことがあって、先生にわかるように説明できなくて、腹立たしい思いをしたことがあるんですよね。これは、他の保護者と話していてもよく議論になります。
私も余裕がないときは、やはり、まず、カチンときてしまいます。これはたぶん、「反抗的」だと受け止めてしまうんだと思います。でも、よくよく考えたり、はかせに確認すると、そうではないということがわかりますし、最終的には、私の非が丸見えになって終わります。
でも、このこと(反抗的に見えるが反抗期でない)を、他人(保護者や教師)に説明しようとすると、うまくできないんですよね。なんでかな〜?
と、なんかわかりにくいコメントになってしまいましたね。
ほんと、ごめんなさいね。
アリスさんと同様、パラノとスキゾを「一般人とアスペルガー(自閉症)に置き換えたら、なんとなく理解でき」るなあ、くらいです。
上山さんとこは隣接分野っちゃ隣接分野なんですが、読むなら時間があるときに、参考程度に読んでみたらいいんじゃないかな。
なんせ、分量も並じゃありません…。俺も、たまに思い出したときに拾い読みするくらいです。
★
反抗期、反抗的の話は、俺にはわかりにくくないですよ。全然。
本文中ではリンクしませんでしたが、2番目のリンク先から行ける(同じくアブラブログの)記事
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-13.html
の真ん中あたりに、反抗期の話がちらっと書いてあります。
ざっくりと言うとですね、「あるのは感じているけどない」ものって、「ある」ことにしておかないと、この世のあれこれが成り立たなかったりするわけですよ。
で、子供が「「ある」ことにしろ!」という要求に対して、苦しみながら飲んでいく期間を、一般に反抗期と呼ぶわけです。
アスペルガーの場合、「あるのは感じているけどない」ものは「ない」とうっすら気づいている。でもそれと同時に、しかし「ある」ことにしておかないといけないというのもわかる、みたいな感じにもなっている。
従って、反抗期はないか、微々たるもので終わります。
一方で普通の人は多くの場合、「あるのは感じているけどない」ものを「ある」ということにする、だけで済まないわけです。
本当に「ある」と思い込む。または、「ある」ことにしただけだ、ということを忘れる。
そうなった普通の人と、アスペルガーの人は、絶対に衝突します。
かたや「ある」と思い込んでいる人。かたや「ある」ことにしただけだということを決して忘れない人。
そのときに、「そうなった普通の人」のほうが優位な立場にいるならば、「反抗的」などといった言葉が出てくるのは、ごく自然なことでしょう。
こういう話になろうかと思われます。
「あるのは感じているけどない」もの・・・
これって、例えば、親がよく使う「お前の為を思って」という言葉は、実は「私(親)の為に」ということなんだけど、そこに蓋をして、「お前の為」が存在しているかのように思い込むって感じなんだろうか・・・。
穴もね、穴から抜け出そうとして精神疾患になる、あえて穴に片足突っ込んで安定している、というのはなんとなくわかるんだけど、その「穴」が想像つかない・・・。「死」「無」って、例えばどういうことなんだろうってね。
正義だったり真実だったりなんだろうか?
斉藤氏の「ひきこもり文化論」は、理解の難しい部分もあるけれど、普通の人のひきこもりについて知らなかったから、身近にいる発達障害者のひきこもりとの違いがあって、興味深く読ませていただいています。
あらためて、対応の違いについての認識が必要だと感じました。
この世のあれこれって言ったのは、「ないけどある」ものの一群です。これなしにはこの世は成り立ちません。
わかりやすい例では「権力」。厳密ではありませんが、権力とは「相手の意志に関係なく、相手を自分の思いどおりにさせる力」って感じかな。「空気」も擬人化するならば、一種の「権力者」となりますかね。
権力の源泉は、権力を行使する側ではなくて、権力を行使される側にあります。権力を行使される側が、権力を行使されることを受け入れるからこそ、権力を行使する側に権力が発生するわけですな。
パラノ(普通の人)は、「あるのは感じているけどない」もの(「無」や「死」)を「ある」と思い込みたがる傾向があるという話でしたよね。
そのため、死を怖がり、死を遠ざけようとする。死から逃げることをエネルギー源として生きる。そういう感じになるわけですけれども。
死を必要以上に怖がれば怖がるほど、権力批判ができなくなっていきます。
権力批判っつっても必ずしも権力者を批判することじゃありません。権力を行使されることを受け入れる自分への批判。権力を行使する側になったときに、自分が権力を適正に用いることができているかどうかへの批判。そっちが先なんですけどね。
スキゾ(≒アスペルガー…としておきます)の人にとっては、「あるのは感じているけどない」もの(「無」や「死」)は「ない」(かもしれない)。
ですから、死ぬことへの恐怖心がないわけじゃないにしても、パラノみたいにそれにべったり取り憑かれたりしないわけです。
自然、権力などの「ないけどある」ものの一群に対しても、距離をとって付き合うことになります。
権力の源泉は権力を行使される側にある、なんてことも、アスペルガーの子にとっては自明すぎるくらい自明。
だから権力を適正に用いない権力者に対しては、「そんな権力の行使の仕方は認めない」「黙って付き合ってれば図に乗りやがって」と言ってしまう。
周りの子らにも、「お前らが認めないって言ってしまえば終わる話なのに、どうしてお前らは黙ってる(上に、陰ではゴソゴソグチグチやってみたりする)んだよ。俺までやりにくくなるじゃねーか」なんて思っちゃう。
自分が権力を行使する側になったときは、権力を行使されることを無批判に受け入れてしまう相手に対して、物足りないと感じてしまったりする。これでは万が一、自分が権力を適正に用いることを失敗したとき、取り返しがつかなくなるじゃねーか、と。
アリスさんの「お前の為」の話も、「お前の為」というロジックを使うのはいいんだけど、それで行使されようとしている権力は果たして適正なのか、という問題になりますよね。
(きちんとした)芸術や宗教は、それをめぐる思索や発見から生じてくるものなわけなんですけど。
人間の心の奥に、無限のエネルギーが湧き起こってくる泉のようなものがあってですね。でもそこに近づいてみると、中心部には何もない、という。そんなイメージかなぁ。
★
おお。では『ひきこもり文化論』を読み終わったら、ぜひ感想でもレビューでも、発達障害者のひきこもりとの違いについてでも、ぜひ書いてみてください。
感想ですか?(^_^;)
昔から、感想文は苦手なのですが・・・。
あまり期待しないでまっててください。
★
脂さんもこちらを見てくださったようです。
女は現実主義者?
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-113.html
身体が男だ、女だというのは、物質的な現実。心が男だ、女だというのは、「ネタ」「コントの設定」。
極端な現実主義者である俺の心は当然、無性別的、中性的または両性具有的です(心の性別に限らず、ありとあらゆる二項操作について同様)。
まあ、普通に女好きですけどねw
スキゾイドはスキゾイドで「統合失調質人格障害(分裂病質人格障害)」っていうのがあるみたいなんですけど、その診断基準は俺には一切当てはまらないです。むしろ真逆。
ずんどろべっちょ???
私は、アスペルガーと自閉症(カナー)は同じ(器質因)だと思っています。
このあたりは違和感がありました。
知的に高いので、周囲の無理解に小さな頃から気づき、苦労し、その結果、心因的な症状が成人期に見られるのではないかと思っています。
ひきこもりもそうなのですが、他の人と同じ様子なんだけれども、原因(解説)は逆なんだと思うんですよね。
だから、「○○っぽい」という表現があっているような気もするし、厳密には違う気もするし・・・。
アリスさんのように、自閉症児とアスペルガーの子と両方いると、見えてくるものもまたあるでしょうね。
俺はというと、何だかんだ言って個人的には原因なんてどうでもよかったりしますw
やっぱり極端なリアリストなんだろうなぁ。俺のこれが生まれつきで育ちによらず、変えようがないってことは、間違いなさそうですからね。原因云々よりもそっちの事実のほうが重要で。昔の人はよく「気性」という言葉を使うんですけど、俺も実際その程度にしか思ってません。
直線的な因果を使った説明のすべてに対して、まず「うさんくさい」と思いますしね。自分が書いてるときも含めてw
付け加えるなら、社会保障や支援についてかな。
社会ってどうしても特定の「気性」を持つ人を阻害することでしか成り立たない面があります。それは歴史が証明してくれてる。
でも、阻害しちゃった人への手当てに失敗してもやっぱり社会って回らなくなっていく。こっちも同じように歴史が証明してくれてるんですな。
さて、今のこの世の中は、俺を一体どうしてくれんのかな?
ま、これくらいです。
★
それでももう少し話を進めてみますか。
非常にややこしい話になります。なので、原因についてはあえて触れませんでした。
上山さんのとこの斎藤環さんの講演レポートの1回目(http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070315)によると、精神疾患の原因は3通りしかないそうです。
器質因(脳にはっきりとした原因がある)と、内因(はっきりした原因がわかっていないが、おそらく脳だろう)と、心因(たぶん心だろう)と。3通りしかないので、脳にまったく原因が見つからなかった場合はすべて、心因ということになるんでしょう。
しかし俺がこういう気性であることは、生まれつきで育ちによらないことも、今後も変えようがないことも、間違いなさそうです。
さて、「生まれつきの気性や精神疾患が心因」というのはありえるんだろうか。
どうでしょう。あるなら、心因もありえますね。
うーん…^^;
これがないとまでは言い切れないので、俺は原因についてはあえて触れなかった、とw
心因だとしても、生まれた後にってことはないと思うんですよ。原理的に。
だって、「あるのは感じているけどない」ものを「ある」と思い込むことなしには、心因性の精神疾患になりえないでしょうから。
でもなりうるのかなぁ。その辺は詳しくないのでわかりません。
また、アリスさんが言ってる苦労して出る症状ってのは、心身症や神経症の部類だろうと思います。
心因云々って言ってるのは、精神疾患についてですからね。またちょっと別物。
心身症や神経症についても少し書きますか。
これらは、苦労したからって出るものでもないんですね。
苦労ということで言うならば、自分が苦労しなきゃいけない理由を自分の中で定めることができていないときや、苦労する覚悟ができてないときに、出ます。
理由を定めたり覚悟したりするのには、自我が変化する必要に迫られることもあります。しかし自我は今の状態に安住していたい。
自我が今の状態に安住したままで、苦労を受け入れるには、「あるのは感じているけどない」ものを「ある」と思い込めていればいいわけです。ところが、そう思い込み切ることができない俺のような人もいるし、思い込める人でも思い込みを突破されそうになっているときがある。
それでもまだ自我が今の状態に安住しようとしたとき、心身症や神経症になっていくんですな。
諸説ありますが、これが一番、俺自身の経験にピッタリきてます。
アスペルガーの人が心身症や神経症になりやすいことも、うまく説明してくれると思います。
思い込みが効かないので、1つ1つ丁寧に、自分で理由を定めたり覚悟したりしながら決断していかなきゃいけません。普通の人のペースに合わせていると決断が間に合わなくなりがちで、そうするとすぐ心身症や神経症に向かってしまいます。
あーややこしいw
だとすると、私は心因がよくわかっていないままにコメントしたことになりますね。読まれた皆様、ごめんなさい。
私たち家族は、器質因でなければ、直るという風に誤解してしまうのですよね。なので、子どもの障害が告げられるときには、「先天性の脳の機能障害だから、一生なおりません」と言われます。まあ、この機能障害という言い方も息子達に失礼な話だとは思うのだけれど、親が変な方向に走らないための最初のストッパーにはなりますね。それでも、私も含め、多くの親は療育に走ってしまうのですが・・・。
なので、心因(よく理解できないままではありますが)が、先天性というイメージには、正直なじめないです。
>苦労ということで言うならば、自分が苦労しなきゃいけない理由を自分の中で定めることができていないときや、苦労する覚悟ができてないときに、出ます。
私は、この文章の『苦労』を『従う』という感じの意味に変えて、苦労というふうなイメージで捉えていました。
内なる声に簡単に蓋のできる私たちと、簡単にはできない(したくない)自閉症の人とでは、同じ枠組みの設定はとても難しいと思うし、そのことに私たちは気づかないといけないと思うのです。
ところで、新しい記事、題名からして難しそうですね。
そろそろ、私のレベルに合わせた会話もしてほしいと、小さな声でお願いしておきますね。
アリスさんがおっしゃる「親が変な方向に走らないための最初のストッパー」みたいなところだけがリアルな問題ですもんね。
難しくない話…。うーん。何を書こうかなぁ。
今、あんまりいいネタないんですよね。就職活動を始められるようになったらまた違うでしょうけど。
そうそう、日記の内容について、ドードーとらさんにお願いするのは筋違いでしたね。私が、自分で書けばいいんですよね。気にしないで、書きたいことを書きたいときに書いてくださいね。内容に、ついていけないときは、正直に降参しますから・・。
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