最近、画伯に変化が・・・。
彼は、小学校の高学年になっても食べたいものは誰のものでも食べるし、分け合うのは嫌がった。
食べ物に名前をかいてみても、写真をはってみてもダメだった。
(今思えば浅知恵だったな〜と恥ずかしいが。)
そのうち、家族のメンバーと呼び名(おとうさん、おかあさん、はかせ)が認識されるようになった。
それでも、はかせのおやつを奪って食べるし、はかせが画伯におやつを「ちょうだい」というと怒って嫌がった。
中学になって、「ありがと〜」と言いながら、いらないものはくれるようになった。
でも、好きなものは絶対にくれないし、人のものでも「ちょーだい」と欲しがった。
そして、指示待ちロボット状態が続き、プッツンきた後、少しづつ変化が見られた。
「ちょうだい」と手を出すとくれるようになった。(初めてもらったときは、感動してしまった。)
画伯の好物のおかずをあげようとすると、「お母さん、食べなさい」と、返すようになった。
おなかが一杯な訳ではなさそうなのに、である。
お菓子を少しづつ食べるようになった。(以前は全部平らげていた。)
彼が食べかけたまま戸棚に片付けたポテチを無断で食べると、取り上げて片付けるようになった。
でも、「ポテトチップ、ちょうだい」と言うと、戸棚から出してきてくれる。
時折、違うお菓子を渡してニヤっと笑うことも・・・。
なんか、すごく面白い。帰宅後はこうしたやりとりをたまに楽しんでいる。
タグ : 自閉症
ほんと、面白いですね〜
大事なことだと思いますよ。そうしていかない限り、自分を支えてくれる知識や知恵みたいなものって身につきませんもん。
当たり前のことなのに、何年もたってから実感するんですよね。
ほんと、バカ親ですよ。
本人が一つ一つ自分のものにしていこうとしているのに、それが無視されて、先回りされちゃう。
先回りされるってことは、自分のものにすることができる範囲を超えてることをやらされるということですから、先回りされた側は、言うことを聞かないか、言うこと聞くけど指示待ちロボット状態になるかのほぼ二択になります。これって必然ですよね。
じゃあ指示待ちロボットでも言うこと聞いてるならいいのか。それはよくわからない。でも、まだ自分のものにすることができないレベルの事柄を言われるまま機械的にこなしているだけなんだから、学びは停滞します。これも必然。
自閉症の人は、言われたことは言われた通りにこなすけど応用力がない。しばしばそんなことも言われておりますが。
これは大間違いですよ。育てられ方が悪いだけ。
ちなみに、上で「ほぼ二択」と書いたのには理由があって、本当は第三の選択肢があります。
それは、何とか自分のものにしようと試行錯誤するということですけれども。試行錯誤って、言われた通りじゃないことをやるってことだし、失敗がつきもの。これはこれで迷惑がられたり叱られたり「奇異的行動」とか言われたりする。
っていうか、これをさせないために先回りしてんですもんね。結局。
やられてるほうは腹立ちますw
おそらく、学びが停滞しているようには見えないのでしょう。
「できるようになった」「自己評価があがった」「ほめることによって定着している」って感じなのではないかな・・・。
>それは、何とか自分のものにしようと試行錯誤するということですけれども。試行錯誤って、言われた通りじゃないことをやるってことだし、失敗がつきもの。これはこれで迷惑がられたり叱られたり「奇異的行動」とか言われたりする。
っていうか、これをさせないために先回りしてんですもんね。結局。
うん、だから、「このままだと社会で生きていけない」「この困った行動をなんとか迷惑をかけない形に変えたい」となり、先回りしてしまうのですよね。もちろん、親は愛情から・・・。
本当は、その愛情の力で大きな峠を越してほしいんですけどね。
難しいんでしょうね。
難しいなぁと思ってるうちに、読者の方から「愛情」に関するコメントもいただいてしまって、余計に難しい状況になりましたw
「愛情」とかっていうのは、厄介かつ面白い言葉ですよ。
言葉それ自体は何の意味も持ってない。いつどこで誰が誰に向かってどういう文脈でその言葉を用いたか、また、いつどこで誰が誰からどういう文脈でその言葉を受け取ったか。言葉の意味はそれだけに依存する。
だからねぇ、取り扱い注意だけど、使い方によっては効果的というか。話を煙に巻きたいときなんかにはピッタリの言葉w
アリスさんがすぐ上で書いてる「愛情」の話もね、峠を越した人も越してない人も「うんうん」とうなずくんだろうと思います。けど、実はそれぞれに意味の違った「愛情」を思い浮かべていることでしょう。
でもこれはアリスさん(←峠を越した人)が、俺(←「親の愛情」なんて無効どころか有害だ…とか本気で思ってる人)に向かって、お互いに相手のことをある程度わかった上でそれでもやり取りされてる言葉なんだから、そのことだけで意味わかるはずだよね、とか思うんですが。
どうなんでしょうね。実際。
そのコメントは、「愛情をこどもに向けるのではなく、自分が峠を越すエネルギーとして利用してはどう?」っていうようなことを、読んでくださる保護者に向けたというのが本音です。
正直、私は記事を書いた時点で、そのようなメッセージをこめていて、そこに察しのいいドードーとらさんが、期待以上の形でコメントを返してくださったんですよね。
で、先日、ある方から、「相手が他人ではなかなか人格の再構築なんてできない、やはり、母の底力なんだよね。」と言われたのをふと思い出して、↑のコメントになったというわけですね。
それにしても、ドードーとらさんとは「あ・うん」の呼吸で進んでいるかと思うと、いつの間にか、あれ?って感じになりますよね。
この微妙な感じが、大事な部分だと思うんですよね。
ここをお行儀よくないことにしてしまうと、前に進めませんからね。
って、話がずれちゃいましたね。ごめんなさい。
でもねぇ…。「愛情をこどもに向けるのではなく、自分が峠を越すエネルギーとして利用してはどう?」ってのは、峠を越えてない人には伝わらないでしょ。
峠を越えた人が振り返ってみれば、先回りしようとしてしまうエネルギーも峠を越すためのエネルギーも、根源的には同じもの。ついつい先回りしてしまう(しまいそうになる)ということは、それだけ我が子への愛のエネルギー量が多いということなんだから、そのエネルギーの使い方をもっとよく考えれば、もっとましな結果が得られるに決まってる。
峠を越えてない人に対しては、「なんであんたらはそうしないの?」って思っちゃいますよねぇ。
そう。ここ、ここ。
アリスさんは、峠を越えたからこそ、そのエネルギーを自分が峠を越すために使えると思えるようになった…はずだろうと思うんです。
峠を越えてない人は、そのエネルギーを自分が峠を越えるために使えると思ってない。それ以前に、峠を越えないととかって発想もない。それどころか、峠があったと知るのさえ、峠を越えた後なんじゃないですか?
こういった、以前の人格が一旦否定されて今の人格が生まれた過程(特に前後関係)を忘れてしまうと、よくないんじゃないかなって思います。
この方は、俺が前に書いた「だって『親の愛情』や『他人の善意』みたいなものが、行動の動機・エネルギー源になりえないっつーのが自閉症だもん」というのを取り上げて、おっしゃいました。私はそうは思わない。時間はかかるかもしれないがわかると思うと。
いい機会だから、あらためて説明します。
まず、根本的に読み違えてますよね。俺は、「自閉症者には『親の愛情』がわからない」なんてことは言ってないんです。
例えば、もし画伯君がアリスさんにここまでしてもらってて、「親の愛情」を感じていなかったならば、俺は画伯君を「犬畜生にも劣るやつ」と罵らなければなりませんなぁ。
でも俺は画伯君が「犬畜生にも劣るやつ」だとは思わないし、そういうやつのことを自閉症者と言うのだ、とも思わない。
俺が言ってることがどういうことか、今回の画伯君のエピソードを読んでわかんないの? …と、逆に聞きたいくらいですね。ほんとに。
画伯君はただひたすらに、一つ一つ確かめながら自分のものにしていこうという思考そのもの概念そのものとして、動いている。それは内的な、野生的なエネルギーによるものでしょう。
そういった画伯君の営みを極力邪魔しないというのがアリスさんの「親の愛情」なんだけれども、だからといってそれを動機やエネルギー源にして画伯君が動いているわけではない。画伯君はあくまでも、内的な、野生的なエネルギーでもって動いているわけです。
こんなもんでよろしいでしょうか。
まさに、おっしゃるとおりですね。
知ってしまったものを知らない人に伝えるのって本当に難しい。
もどかしさばかりが先行してしまって・・・。
だから、お付き合いのある女性の教授にも、他のお母さんにどうやってわかってもらえばいいかって聞かれるんだけど、難しい・・・。
そうそう、最近聞いた話では、正しい行動を「仕込まれた」自閉症児が、思春期になってボロボロになってきているらしいんですよ。
これが、警告となって、峠を越す入り口に立てる大人が増えればいいとは思うけれど、どうかな・・・。
アプローチ方法は、もうちょっとしっかり考えようと思います。
反省、反省・・・。気付かせてくれて、ありがとね。
でもアプローチ方法となると、やっぱり難しいですね。俺も物心ついてからこっち、そのことばっかり考えてますよw
なんせ、やんなきゃいけないことの中身が人格否定なわけですからねぇ。平和的に進むことなんてめったにない。「効果的な暴れ方」みたいなことを考えるしかない。
> そうそう、最近聞いた話では、正しい行動を「仕込まれた」自閉症児が、思春期になってボロボロになってきているらしいんですよ。
ああ、そうですか。そうなるだろうと予測はとっくにしてたけど、もう現実になってしまってたんですねぇ。
俺が思ったより早かったなって感じです。早かったというのは明るい材料でもあるし、暗い材料でもある感じがします。
明るいほうを言うと、どうせ破綻するに決まってる考え方・育て方ですから。破綻するならさっさと破綻して、その先に行ってくれたほうがいいでしょうね。
暗いほうを言うと、しかし「その先」は必ずしも明るい未来ではない、ということですね。まあ、関わりのある人次第ですよ。
実際、画伯も刃物で自分を傷つけようとしたからね。
私もひどいことをしてきたしね。
いろんな手法やツールを利用することは支援として必要なんだけど、そのこがそのこらしく育つためなのか、大人の望む理想像に近づけるためなのか、そこが大きな分かれ目ですね。
これは、障害児かどうかなんて関係なくね。
いや、ほんとに不謹慎で、アリスさんや画伯君には申し訳ないんですけど。なんかすごいな言葉って、と思って。
使い方をちゃんと考えないままに手法やツールを振り回してるナントカさんたち…の姿が画伯君という鏡に映ると、本当に刃物を手にしてちょっと間違った使い方をしようとするという行為になる。
こういう見方をしてみると、まるでこの言い回しが誕生した瞬間に立ち会ったかのような気持ちになりません? 俺だけかなぁ^^;
> そのこがそのこらしく育つためなのか、大人の望む理想像に近づけるためなのか
うん。それはそうなんだけど、やっぱりこれも、そうは言ってほしくないなって感じがします。「その子がその子らしく育つため」という言い方は既に、我が子を徹底的に自分の望む理想像に近づけようとするバカ親にとっての、(親本人をも騙し切るほどの)いい隠れ蓑になっちゃってるでしょうからね。
なんか、困っちゃいますね。うかつにしゃべれなくなっちゃう。
あ、そうですね。例に出すにはちょうどいいかもしれません。(^_^;)
他の地域がどうかは知りませんが、私の地域では、師匠や例の女性教授などが同じような警告を何年も前から続けてくださっていて、そのせいか、講演会なんかでは、「特性はそれぞれ違います。お子さんに合うとは限りませんので、そのあたりはご了承ください」とか「使えそうだと思ったら実践してみてください。」ということを呪文のように繰り返す人が増えましたよ。
でもね、そこで聞いてる人の多くは素人なんだから、子供に合うかどうか、使えそうかどうかという判断を素人にさせるなって話なんですよね。
でも、気付けていない。なぜか・・・。
きっとそのご本人が適当に合うと思って適当に使っているからなんじゃないかな〜と、私なんかは思うのですよ。
でないと、そんな怖いセリフ、とてもじゃないけど言えないですよ。
>「その子がその子らしく育つため」という言い方は既に、我が子を徹底的に自分の望む理想像に近づけようとするバカ親にとっての、(親本人をも騙し切るほどの)いい隠れ蓑になっちゃってるでしょうからね。
あ〜、それ、よくわかりますよ。
私自身が、私が書いたようなことを言われる側だったときに、「いいですか?これは白です。でも、黒なんですよ。」って言われているようなヘンテコな感覚に陥って、「どっちなんだ!!意味がわから〜ん!!」って混乱しましたからね。
たぶん、「親が望む姿」と「そのこらしく・・・」がセットみたいになっていて、切り離せないんじゃないかな〜。
たとえば、危険をおかしてあえて言うならば、大きな事件を起こした少年を加害者呼ばわりして、「発達障害の人たちは、被害者になるケースのほうが多い」という人たち。
でも、そういう見方で見るならば(もちろん亡くなった方が被害者であることを否定するわけではないんだけど)、私には事件を起こした少年も被害者に思えてならないんですよね。
周囲が被害者だと思うケースも、犯罪者だと思うケースも、相手がいてその反応なんだからってね。
これがわかる人なら、そのこらしく・・が通じる気がするんですけどね。
わからない人は、そのこらしく・・は、「あなたの思うそれは違うよ。」って言いたいですね。
> 「特性はそれぞれ違います。お子さんに合うとは限りませんので、そのあたりはご了承ください」とか「使えそうだと思ったら実践してみてください。」ということを呪文のように繰り返す
だけだったら、ただの責任回避ですもんねぇ。
実際には判断のほうが重要なんだけど、判断って職人技だから、講演で簡単にわかりやすく伝えるなんて絶対に無理。その無理さ加減を知れば知るほど、手法については語れなくなってしまいますよね。
> 「いいですか?これは白です。でも、黒なんですよ。」
あはは^^ そう簡単には単純化できませんよね。
この「発達障害の人たちは、被害者になるケースのほうが多い」というのも粗雑な単純化ですよね。
もうちょっとましな単純化を試みるのであれば、「生きている限り魔女裁判にかけられ続けるのが近現代における自閉症者のリアル」とか言ったほうがいい。両義性を織り込んだ形で。
逆に言うと、近現代において生きている限り魔女裁判にかけられ続けるような人に犠牲を局在化して強いることによって初めて、近現代が立ち上がったわけだから。近現代のメリットを享受するありとあらゆる人は等しく(無論俺も含めて)、罪深い加害者であるわけです。
魔女裁判にかけられ続けるのに耐えかねた自閉症者が辻斬りと化し、「一見何の罪もないように見える人」が殺されたとして、殺された人は確かに被害者ではあるけれどもだからと言って真っ白というわけではない。
ほんと、簡単じゃないですよね。
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